凡そ日記_2021.9月

2021.9.1

もし何かをするのなら、「こちら」から語りかけるようなものではなく、「あちら」から問いかけられるような形で何かをしたい、そんな風でありたいと決めた

2021.9.5

日が落ちてからだろうか。さっきは夏芽と話をした。僕は僕の、彼女は彼女の気持ちを、純粋に抱えているものを、そっくりそのまま伝えることができた。
ああ、こういう瞬間があるんだなあ。辛かった時間をちょっとだけ肯定したくなる。いつもありがとう、だ。

それから夏芽は来年の春迎える就職についての不安などを話してくれた。
「そうだよね。本当に。そうだよね」僕にはそう言ってやることしかできなかった。
僕にできることなんて何一つない。そんな気持ちを抱きつつ、一方ではこんな気持ちも抱えていた。

大丈夫。お前はお前のやりたいことをやったらいいんだよ。俺ができることは、お前が疲れてしまった時、ゆっくりと休める場所を作っておくことなんだから、その時はその時に考えたらいいんだ。未来のことなんて、本当に、今日、この瞬間で変わってしまうものなんだから

2021.9.6

人間はどうしても言葉で訳を説明したがってしまう。

僕は、言葉で伝わってしまうものなんてつまらないものだと思う。
言葉で説明できないもの、語ることができないものの方が多いということ。
こんなにもわかりきったことを理解している人は少ない。
そうして、そんな風に、今日も誰かが誰かのことを知らないうちに傷つけてしまうんだ

2021.9.7

1日休みだったので早川町を散策してきたが、今日は特に大きな収穫はなし。

2021.9.9

今日は実家の店でイベント。のりちゃん(のりちゃんは普段、甲府でオカマバーを経営している)がカラーセラピーをやるらしいので、僕もやってもらうことに。
以下、のりちゃんとの話をメモしたもの

・24〜25の時に大きな決断をする、迫られる、変化がある。自分の中では不本意かもしれないが、やってみた方がいいかも。そうするとガラッと景色が変わる
・新しい出会い、刺激が必要、人から注目されることをやるといい
・時間がなくても焦らない、今を楽しむ事を忘れないで一日一日を意識的に動く
・今年は、家族、身近な人を大切にする年
・来年は、自己成長の年、色々行動すると良いことに繋がる
・冷静になって、落ち着いて行動するための材料をゆっくり探す
・他者と自分との境界線を作る、色々なことを割り切ってやる。諦めてもよい 、芽が出るためには材料が必要
・自分の中の美学を大切にすると、革新的な思考をもたらす
・自分の土台を作る。
・小さい子たちと何かをする、関われる何かがあるといいかも、子供広場とか
・体調面 貧血、目眩、立ちくらみが心配、血を増やすことを心がける
・守護霊  小さい女の子が守ってくれてる。腰の曲がったおばあちゃんもいる 孫とおばあちゃんかも 日本人ではない、 アジアの人かも おばあちゃんは街の助産師をしていたかも

僕が引っ越しを考えていることをのりちゃんに伝えたのは話の最後だったので、僕は話しながら驚きと興奮を抑えられなかった。僕はやはり、環境が変わり、自分が新しいことをするのをとても恐れているのだと思う。そうして反面、自分にはそういう生き方しかできないということを強く自覚している

2021.9.10

なつやさんとゆうきさんにもっと2人の文章を読みたいとメッセージを送った。
高校の同級生のりょうちゃんにも、もっと君のことを知りたいとメッセージした。すぐに電話がかかってきて話をした

最近どう?とか

こんなことが普段でも出来る人間であれば、そんな僕であればもっともっと色々なものを大切にできるだろうになあと思った

いやいやしかし、淋しさを人からの「それ」で解消しようとするなよ、なんて。 淋しいさ、僕も

2021.9.11

風の又三郎兄さんと早川町の話をした。
彼はわかりやすく、今僕が何をすべきかを教えてくれた。

まず、引っ越した後、数ヶ月は収入は無くなるだろうから、半年過ごす分だとしても、少なくとも5、60万円の貯金は必要だという。なるほど、だとしたら僕はその貯金が無くなるまでに生活の基盤を作ってしまえばいい訳だ。貯金のことなど頭の片隅にもなかったので、彼のアドバイスは早川での生活をとても現実的にした。もちろんそのほかにも彼は幾つものアドバイスを僕にくれた。

2021.9.14

いることに慣れる、いないことに慣れる。人はすぐに慣れてしまう。そんな僕が嫌だなと思った。季節に慣れ、退屈に慣れ、感傷に慣れる。ほんと、僕はすぐに慣れてしまう

2021.9.13

茄子の収穫に行きだしてからひと月経つ。このひと月の間、僕の生活リズムは恐ろしいほどに乱れ出した。最近は茄子の収穫を終えたあとナルラボに行ったり、観光農園に行ったりするので体力的にも中々きつい。
仮に午前中で作業が終わり、その後予定がなかったとしても、風呂に入り飯を食うとびっくりするくらいの眠気がやってくる。少し横にと眠るが気づいたら夕方。これは辛い。
自分のやりたいことのために時間を取ることができない。僕のリズムはぐちゃぐちゃだ

しかし、それだけならいいのだが、僕の心にある不安や恐れは単純な疲れとは違う形をしているのではないかと思う。自分でもどうしてこんなに辛いのかがわからないから、ちょっと心に引っかかるところを書いてみる。

まず第一に、朝5時前には起きなければならないというプレッシャー。僕は元来夜型なのでこれは大変だ。案の定、いつも通り深夜に思いついたことに取り掛かったりしていると平気で午前2時3時。それから朝のことを考えなければいけないのは恐ろしい。と言うのもこの仕事は2日や3日では終わらないからだ。僕は10月一杯手伝うと約束してしまったのだ。
そうして朝が来る。1度目の目覚ましでは起きることができないから大体早めの時間に設定しておく。まだ大丈夫大丈夫と思っているうちに家を出る時間になっていたりする。
急いで支度をして家を飛び出る。さあ、ここからが僕にとっての地獄である。自宅から車で笛吹川のある土手沿いをひたすらに走る。これがもう陽も出てきた明るい時間帯だったらどんなによかっただろう。こんな時間だ、他の車なんてない。真っ暗な道を、ただ1人でゆく。
そこにあるのは恐ろしいほどの静寂。そこに気が狂うほどの眠気と30秒に一度は戦いながら、朝の5時には響きすぎる、車のエンジン音を聞かなければならない。そう、僕は音が怖いのだ。幼い頃から、特定の音に対してほとんど突発的に耐えようのない恐怖に襲われることがある。これは現在でもそうで、例えば自分で好きで流している音楽、テレビの音、隣の人の話し声、自分で草刈りをしているときの刈払機のエンジン音。身の回りの音にはもちろん、自分自身で作りだした「音」に対しても、これは反応する。これは、そうだなあ。例えば黒板を爪で引っ掻く時に生じるあの音。想像しただけでダメな人もいるんじゃないかな。あれが、ほとんど全ての生活音に対して、突然反応することがある。もちろん、実際は字面ほど深刻ではない。「ああーちょっと嫌だな、早く止め。だめだ、意識するな、他のことを考えろ。」こんな感じ。考えているうちに大体ケロンとしてしまう。ただ、意識しだすとなかなか終わらない。そんな感じ。

僕にとっての地獄は、この早朝の20分。「音」に悩まされている人って案外多いんじゃないかしら、と時々思ったりするけれどどうなんだろう。僕はそんなこんなで、(もちろんほかにも理由は沢山あるよ)割と若い頃から、これは僕には大多数の人たちのように普通に生きていくことは無理だなーと思ったりした。

と言うことで、いつ終わるのかわからない茄子の収穫に対して思ったことでした

2021.9.14

​​深夜、ふと森田童子が聴きたくなって、「ぼくたちの失敗」を聴く。花蓮の語学学校にいた頃の記憶が鮮明に思いだされて胸が苦しくなる。あの頃はちょうどまだ言葉も話せず、右も左もわからない中、祖父が亡くなったりしたのだ。祖父は晩に亡くなったのだが、その翌日は普通に授業があって、けれどもそんなことは誰にも話せる訳もなく、歯を食いしばって授業に出ていたことを思い出した。あの頃は何かと辛いことが多かったなあ。拓郎の「どうしてこんなに悲しいんだろう」とか、かまやつひろしの「どうにかなるさ」、岡崎友紀の「私は忘れない」、テレサテンの「雨夜花」何かをよく聴いていた。それらを聴くと今でのあの頃自転車で街を走った風景やよく行った飲料店のおばちゃんのことが思いだされる。

何も知らない場所にポツンと立たされた僕を、あの頃誰が守ってくれたろう?
もう少し経ったらあれから2年になる。もう、遠い遠い過去のことのように思えてしまうんだ

2021.9.17

今日は父と半年ぶりくらいにちゃんと話をした
彼も、誰かと話をしたかったのだろう、と想像しながら、自分もおそらく父と話をしたかったのだ。
久々に言葉を交わすと、そういえば父が話のわかる人だったんだということを思い出す。
そうそうそうと、胸の高鳴りを感じる。父がそう思っていることが嬉しかった。

こんな話をした。

20歳の頃は何やって
30歳の頃は何やって

という未来を想像しておくといい。
きっとその時に、思った通りにはならないだろうけど、ある程度自分の未来のことを考えておけば、軌道修正も楽だよ、と。
おそらく、核の部分を作っておきなよ、という話だったんだろうな。今だったら少し、あの頃のことがわかる。ほんの少しだ。

そういう話をした。そしてこれは団地に住んでいた頃お父さんと話したことだ

父が昔言っていたことを、彼の雰囲気だったりを、またほんの少し思いだす。
ああこの人は良く話す人だったんだと。こんなに賢い、思慮深い考えを持った人だったのだと。

ナルラボでみわさんに、なりたい自分を決めるんだよ と言われた

2021.9.19

今日は放光寺のフリーマーケットに行ってきた。目的はアサマデパート。
毎月行われている勝沼の朝市が今月はコロナの影響で中止に。今月から定期的に、放光寺で参道を活用したフリーマーケットが行われるらしい

今回もアサマデパートでちょっと笑っちゃうような、愛おしいガラクタを買ってしまった。タイミングのいいことにアサマブドウエンの葡萄も売っていたので購入させてもらった。

理由なんてわからない。ただ、一口食べてこれは普通の葡萄ではないとわかった。今まで食べた葡萄の中で断トツに美味かった。葡萄には、種が。やっぱりなーと思った。
夏芽も種が入っていることに気づいたらしく、なんと僕の顔面めがけて吹いてきた。
ほら、種が入っていると、それだけでコミニュケーションになるんです。笑
アサマさん、最高の葡萄を本当にありがとう。

フリーマーケットに行った後、夏芽は少し体調を崩し寝込んだ。
体温が上がっているらしく、氷水につけたタオルをおでこと首元にそっと。
古典的な対処を施した。が、その絵面のおかしさにシャッターを切ることを我慢できなかった

2021.9.22

ナルラボのひよこが誕生した。
実は数週間前からナルラボの鶏が卵を温め始めていたのだが、今日ついに雛が孵った。
朝一、かおりさんと一緒に鶏小屋を確認しにいく。すると、何だかとても小さな命がピヨピヨと必死に声を出しているのだ。
あまりの美しさと自然の偉大さに言葉を失ってしまった

2021.9.25

最近は夏芽がずっと家にいるので、毎日彼女の表情を集めている

2021.9.28

マクドナルドの袋を抱えている瞬間って、どうしてあんなに幸せな気持ちになれるんだろう。

倉本聰の「ニングル」を読み終えた。
ニングルは、今の僕にとって、あまりにも重大な主題を描いていた。と同時にこれは今の日本国民全員に読んでもらいたい。なんて本気で思ったりした。

いずれ、人間は滅びるだろう。いや、人間が滅びると言うより、僕ら、あらゆる生きとし生けるものが本来大切にしていた、或いはするべきだったものを、人間はいずれ失うんだろうなと確信した。だから、この本は僕にとっての戒め「訓戒」だ。
倉本聰はこれを今から約35年前に書いている。そうして僕は2021年現在、彼の本を手に取った。これには一体どんな意味があるのだろう。

ニングルの影響かどうかは知らないのだが、今日ふと家の中で、早川町での生活を想像したら涙が出てきてしまいそうになった
凍える日々に、冬の冷たさを、僕は身を持って体感するのだろうな、僕の持ち物は今よりもっとずっと丁寧になりそうだ

今月は何だか日々書きたいことがあったのだが、あまり書こうと思わなかったりした
気づいたら9月になっていて、ようやく9月のことを考えようと思ったら9月はもう終わってしまいそうだ

久しぶりに部屋の掃除をしたので写真を撮った。もうすぐこの部屋ともお別れだ

2021.9.29

夏芽と話した
日記のことだ。数日前に8月の日記を公開した。それを読んだ夏芽から感想をもらった。
夏芽は、僕の日記にメディア的な一面を感じたという。それはどういうことか
夏芽が教えてくれたことは一つ。
例え日記であれ、事実を書くということは、少なからず人に影響を与えてしまうのだということ。
それは最早、良い悪いの話で片付けられるものではなかった。
ただ淡々と事実を書いているだけの僕にとって、それは恐ろしくハッとさせられるものだった。

馬渕尭也

Author 馬渕尭也

2001年生まれ。山梨市出身。高校時代から周囲の人たちのありのままの姿や風景をフィルムカメラで撮っている。 高校卒業後台湾へ留学。帰国後の現在は、農業をしたり、地域の読書会に参加したりと、様々な場所をウロウロしながら生活というものを日々模索している。好きな作家は深沢七郎 Facebook / Instagram

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