【心呼吸】#05 隣の山から/栗沢山

栗沢山という山は聞いたことがなかった。
宇多田ヒカルの出ていたサントリーの天然水のCMの山だよと言われた。そのCMは好きだった覚えがあるけれど、それが栗沢山だということは全く知らなかった。

北沢峠からの甲斐駒ヶ岳を選んだのは、自宅から見える山をひとつひとつ登っていきたいという、ささやかな夢があり、このコースがその最短距離であったからだ。いつかは登りたいと思っている黒戸尾根は、まだ自信がない。

 

「黒戸尾根から登らないと甲斐駒を登ったとは言えないよ。」かつて誰かにそんなことを言われた気がしたけれど、そんな時いつもモヤモヤとした煙が胸の真ん中を覆う。言った本人はきっと軽いジョークのつもりなのだろうけれど、私にとっての登山とは競争ではないのだ。それでもやっぱりいつか何とかして登らないといけないような気持ちになるのは、内なる競争心からなのか、好奇心からなのか。きっとどちらかだけではなく、どちらも確かに存在しているのだろう。

長衛小屋にテントを張った私たちは、翌日に甲斐駒ヶ岳を控え、その日は栗沢山に登った。どんな山なのだろう。南アルプスは日向山以外初めてで、未知なる世界に少し緊張していた。深い緑の森はそんなことはお構いなしと言わんばかりにドンと構え、何も言わずに私たちを迎え入れてくれた。

静けさに包まれる樹林帯は大好きだ。
樹木の名前や高山植物の名前はからきし覚えられない。毎回、これはシラビソか?コメツガか?と頭の中は疑問符でいっぱい。答え合わせができないまま、なんとなく通り過ぎてしまうのが残念である。花の名前も石楠花、イワカガミ、チングルマなど高山植物の図鑑の表紙に出てくるような代表的なものをいくつか言えるだけ。それでもそれらを愛でる気持ちだけはたっぷり持ち合わせているつもりだ。

軟体動物のように変幻自在に姿を変えながら張り巡らされた木の根っこ。森の奥で物憂げに差す一筋の光。誰にも気づかれず健気に岩陰に咲く花々。様々な装いで次々と姿を現すキノコのショータイム。彼らに出逢う度、嬉々としてしまい、異国の地で同じ言語を話す人に出逢った時のような、自然の一部にでもなってしまったような気にさえなる。

登り続けていくと、突然、甲斐駒ヶ岳が姿を現した。なんて美しいのだろう。いつも自宅から見る甲斐駒は、光の加減で黒く見えている。こんなにも緑豊かな山だなんて知らなかった。何度も何度も、なんて綺麗な山なんだろう!と叫びたい気持ちになった。或いはそう叫んでいたような気もする。

同じ山なのに。同じ人間なのに。
容姿が美しいという事実は、どうしても多くの人を惹きつけて止まない。それはより美しいもの、優れたものを遺伝子として残しておきたいという動物的な本能から来るものなのだから抗えないのだけれど、そんな現実から生み出される嫉妬や卑下、差別に自分ごとではなくても、時に打ちのめされる。それでもこんなにも美しく立派な甲斐駒ヶ岳は紛れもなく私の心を惹きつけ、そしてその隣にひっそりと存在する栗沢山がとても好きになった。

週5日働いていた日々から、週5日休みの生活になって3ヶ月以上が経とうとしている。仕事がなくなる前の、この先どうなるのか分からないという不安に呑み込まれていた状態から解放され、過去の事になりつつあるその時代を振り返ると、見えてきたことがたくさんある。やめるんじゃなくて、一旦リセットするといい、と最近読んだ本に書いてあった。人は渦中にいる時は気が付かないことがたくさんある。あまりに目の近くに対象物があるとピントが合わない、あれと同じだ。距離を持って、時間を置いて、一度休んで。自分ととことん向き合って。強制的にリセットされたことで、とても豊かな時間をもらったんだと思うようになった。心配は不安を無限に生み出すのだから、くよくよしていても仕方ない。ケ・セラ・セラ。そんな性分でもないのに、時々そんな気持ちになる。

手が届きそうで届かない距離から見る甲斐駒はとても素敵だった。甲斐駒の向こうには八ヶ岳もくっきり。この一ヶ月半後に登ることになった鳳凰三山へと続く稜線や北岳も見える、素晴らしい山々に囲まれた栗沢山はとても魅力的な山だった。

白倉美織

Author 白倉美織

八ヶ岳南麓暮らし。山と写真と読書、ときどき美味しいものがあれば幸せ。 Instagram

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