初めて山の中で一人ぼっちになった時間が忘れられない。
登山を始めて間もない頃、家族で登っていた時だった。息子が少し休むと言うので、歩きが遅い私はみなの足を引っ張らないように、一人で先にちょっとだけ進んだ。
ほんの数メートル歩いた所で、前にも後ろにも誰も来ないことに不安を感じ、立ち止まり電話をした。笹藪を揺らす風の音と葉がこすれる音だけが耳に纏わり付いた。
呼び出し音は鳴るけれど、気が付かない。不安と恐怖が押し寄せてきた。時間にして10分程度だったであろうその時間はとてつもなく長く感じ、家からそう遠くない場所にいるのにもかかわらず、私はまるで遥か上空のエアポケットに迷い込んでしまったような気分だった。
今ではまずこのような同行者と離れるような行動を取らないし、電話を当てにもしない。地上と山の中の区別も大してついていなかった頃の話だ。と言ってもそれほど前のことではないのだけど。
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歩くことも、運動も、山も好きじゃなかった。
なるべく歩きたくない、車から出たくない、駐車場は一歩でも店の近くを探していた。そんな人間が40歳を過ぎ、ひょんなことがキッカケで山に登り始めた。すっかりハマった。その言葉がぴったり来る。カメラで写真を撮りながら、ゆっくりしか歩けないので、後から登って来る人ほとんど全員に追い抜かれることには、もうすっかり慣れっこだ。
なるべく歩きたくない、車から出たくない、駐車場は一歩でも店の近くを探していた。そんな人間が40歳を過ぎ、ひょんなことがキッカケで山に登り始めた。すっかりハマった。その言葉がぴったり来る。カメラで写真を撮りながら、ゆっくりしか歩けないので、後から登って来る人ほとんど全員に追い抜かれることには、もうすっかり慣れっこだ。
今では一人で山に登ることもあるけれど、周りに誰もいない時は気分が良いと歌っている。大抵同じ歌の同じフレーズを繰り返している。考えごとがある時もだいたい同じだ。具体的な解決策などを導き出すというより、同じことをぐるぐると何時間も禅問答のように頭の中で繰り返し考えている。
長いと8時間を超える時もある。
そんなことをしていると、下山の頃には疼き始める足の痛みと、胸の中に沈澱していた小さな痛みが、いつの間にかすり替わっている。精神という目には見えない存在が、山の中で出逢う樹々や岩、踏み歩く落ち葉、風の音や野鳥の囀りに溶け込み、揉まれ、やがて柔らかな何かに形を変えて、また自分の身体に戻ってくる。その感覚が忘れられなくて、私は何度も山に足を運んでしまうのかもしれない。
そんなことをしていると、下山の頃には疼き始める足の痛みと、胸の中に沈澱していた小さな痛みが、いつの間にかすり替わっている。精神という目には見えない存在が、山の中で出逢う樹々や岩、踏み歩く落ち葉、風の音や野鳥の囀りに溶け込み、揉まれ、やがて柔らかな何かに形を変えて、また自分の身体に戻ってくる。その感覚が忘れられなくて、私は何度も山に足を運んでしまうのかもしれない。
そんな私の山歩きの話を少しだけさせてほしくて、BEEKのこの場をお借りすることにしました。