凡そ日記_2021.8月

2021.8.1

月に一度開催されている勝沼の朝市に行ってきた。

先月偶々出会った古道具屋の方たちが今日もいた。この間はここでなんとも可愛らしい虫かごを買わせてもらったのだ。今回も素敵な万華鏡を買わせてもらった。オーナーの方と雑談をしながら、「この方は本当によく人の目を見て話をする人なんだなあ」と何度か思った。僕は彼の柔らかい表情にとても好感を抱いた。帰り際に「実は店舗もあって、この後15時からやるからおいでよ」と言われ、朝市の後お店の方にも行かせてもらった。

場所は一宮。「アサマデパート」という名前がそこにはついていて、驚くことに僕の家からは、ほとんど一本道で行ける場所にあった。

オーナーさんは海外にも買い付けをいくことがあるらしく、店内には国内外の古道具が綺麗に並べられていた。建物自体は元々郵便局の土地だったようで、所々にどこか懐かしさを感じさせるものがあった。

古道具の他に、コーヒーやドーナツを頂けるらしく、今回はドーナツと自家製ジンジャーエールを頂いた。ドーナツは甘さ控えめ、パサパサしない絶妙な食感であっという間に食べ終えてしまった。ソファに座って店内を眺めていると、いつまでもこうしていられそうな気がした。

彼、と話をしていると、やはり先程のようにあることに気づく。目が驚くほど真っ直ぐこちらをみているのだ。嘘はつけないなと思う。時々、こういった種類の(種類というと、変だけれど)方と出逢うことがあるが、やはり「ご縁だなあ」と感動してしまった

欲しい本を見つけ手に取ると、「本は貸し出しをやっているんだよ」とオーナーさん。売っている物ではないらしい。「売るとそれっきりになっちゃうからね。それだと経済は生まれない、貸したらまたうちにきてくれるでしょう。本読んだらまた感想教えてね」
僕は「ははあ」と思った。僕が古道具屋や古本屋に対して抱いていた退屈な印象はこれだったんだなと理解した。僕は、自分はこういうことをやりたいのだなと思った。ここへはまた通ってしまうことになりそうだな

お金がなかったので、欲しかったフランス製の卓上ライトを取り置きしてもらった

2021.8.2

ゆうきさんが山梨に来た。駅まで迎えに行き1年ぶりに再会した。本当に変わらない、変わったのは僕が彼を車に載せていることくらいか。彼はこっちにどのくらいいるんだろう

家でひと段落してから、喜久乃湯温泉へ向かう。たっぷり2時間くらい銭湯を堪能して、夏芽を迎えに行く。ゆうきさんと夏芽が会うのは初めてだ。電話なんかだと話したことは何度かあったけど。3人で少しドライブをした後、六曜館に行った。
2人は楽しそうに「初めまして」の話をしている

車に乗ってドライブしていたら、もうずっと前からこの3人で過ごしたことがあるんじゃないかと思った

2021.8.3

寝ぼけまなこな1日だった。
今日は3人で笛吹川で散歩をしたりご飯を食べたりした。家の近くでもまだ知らない景色が沢山あるということを知った

17歳の頃書いた日記が出てきた。この頃の僕がどんな表情で毎日を過ごしていたのかひどく気にかかる

2018.8.3
日々、誰かしらに 一方的な親近感を抱いてみては、ああこいつはつまらない、下らないと 嘆き 控えめに見下してはみるが、笑っては、そんな自分に対し何処か悔しくなっていることに気づいて哀しい。心もちは瞬間、人格なんてものはいくつ持ち合わせているのか自分にはぜったいに分からないのが人なのだと思った。まあそれは仕方の無いことなのだけれど、実際人のことを考えている時間ほどに、幸せで、虚しいものはないだろう。人のことをああだこうだと言っている暇があったら動けはたらけ死ぬまで何かを吸収する為、勉強を 行動をしろ と自分自身に言い聞かせ、そうしなければいけない、と考えると同時に、僕は自分のことを何か、とても足りていないような気がしてならない。例えばしたたかな、やさしさであったり。つかさんは言っていました。暇になるのはいいことです。こまめに、皆んなにやさしくしてあげられそうです と。あゝ、そうか僕は まいにち暇を持て余しながらも ひとにやさしく出来た試しが無い。やさしさは、どうしても辛い。ひとは、出来ないことには嫉妬をするが、未だやっていない 出来るであろうことには当然 期待をするものです。それなら全部全部やってしまえたらいいのになあ、 なんてそんなにうまくいかないのが毎日で、僕自身です。それなら、いつか。この頭 を今よりもう少しくらいには、有意義に使いこなしてやるんだと思った今日です。ところで、若いころの自己顕示欲と承認欲求の塊だったりは、無くてはならないのだと思う、たくさんなのは間違いなく苦しくて、ふとした時には、春のように嬉しい。

2021.8.4

最近は暑すぎる。今日もゆうきさんとお出かけだ、どこへ行こう

車の中で、気づいたらゆうきさんがなつやさんに電話をかけていて、久々になつやさんの声を聞く。なつやさんが新しい曲を作ったらしく、早速聞く。

「もう顔の知っている人の文章しか読みたくないと思いました」
何かの拍子に、僕の日記を読んでこう言ってくれた、たくみさんの言葉を思い出す。「無農薬の文章がいいよね」ゆうきさんが隣でそう言っている。これで今日3回目くらいになる。僕も本当にそう思う。

ゆうきさんと竜王ラドン温泉へ。

温泉に浸かりながら、以前、「時間の流れは実は過去から未来へ、ではなく未来から過去へ流れている物だ」とゆうきさんが言っていたことを思い出し、そのことを聞いてみた。
https://note.com/yukiishida/n/n0fd993a9f5b6

「先日や前日は過去のことを、後日は後のことを指したりしているし」ああ、確かにそうだった。「実は今を生きることは実は過去へ向かっているのではないか」という意識を持った途端、いろんなことが腑に落ちてしまった。「後悔」だって納得した。
僕らは過去へ向かって進んでいる。実は土に還るように、ほとんどそれと同じように、そういう方向へ向かって生きているのかもしれない。

ゆうきさんと共有したものがある。誰でも同じ思いを抱えているものだと思った。台湾の頃にはできなかった話だと思う

「諦める必要がある、時がある。それは後になって誰かを思いがけず傷つけてしまわないようにするためだったりする」

帰りに現像したフィルムを取りにカメラのキタムラにいった。ここ2日、ゆうきさん達と山梨のあちこちを遊びまわった時のフィルムがもうすでに2本はあった。期待を込めてインデックスをみて見ると、驚くことに写真の色が悉く失われていた。原因はおそらくカメラの露出異常。
新しく買ったカメラで初めての現像だったけれど、そこにあったはずの思い出を全て失った気持ちだった。

2021.8.6

「今日ナルラボでバーベキューをするんだけどもしよかったら夏芽もこない?」彼女からの返信を待つ。夏芽は部屋で熱中症になったという。「今はもう大丈夫だから」とメッセージがきた。「ゆっくり休んでね」と伝える。
今日は夏芽にもナルラボに来て欲しかったのだ。我々は、どこまでを選択しているのだろう

・同じ気温、環境なのに暑い人と寒い人がいるのはやばい
・ufoは見ようと思った途端に見える
・自分がしている経験って、他人にとってはその人の人生がひっくり返っちゃう瞬間だったりもする
・手を消毒すると、自分の常在菌は消えると同時に腸の機能まで失われてしまう。

現実とそうではない時間の狭間がわかった気がした、不思議な夜だった。 また、詩を書く人の気持ちを限りなく理解できた気がした

2021.8.7

山を登った。塩山の塩ノ山というところだ。556mの小山だった

今日の夜は家でバーベキューの予定。夏芽も来るみたいだった。

「なんでもない話」

2人でいる時、ゆうきさんがふと言った。
「もっと人が欲しい。夏芽の友達も連れて一緒に出かけたい。」

「彼女と2人でいてもつまらないんだよね。例えば、彼女の友達と過ごしている時の「ぼく」もみてほしい。友達といる時の彼女の姿とか全然知らないじゃん」
ははあーと思った。心から納得した。この人はどうしてこんなことをさらっと言葉にできるんだろうと思った。そういえば、僕らはいつも2人だった。まだ、夏芽のみたことのない姿が沢山あるんだなあ

5日前ゆうきさんが来てから、お互いのことを話したりしていると、時々感極まって思わず涙が溢れてしまうことがあった。今回もまた、そうだった。

ゆうきさんが星野源のsunを流している
「これじいちゃんが亡くなった後聞いてめっちゃ泣いたんだよね。」
僕は何だかその話を聞いてとても安心したのだ。音楽聴いて、それが自分の感情と結びついていることが、僕だけではないのだな。と。そういう物語的な話を聞くことができたのが嬉しかった。

そう伝えると「みんな隠しちゃうからね」とゆうきさん。
これからの人生、そんな物語を共有できる人たちと過ごせたら嬉しいなと思う

夜、夏芽と散歩をして公園へ行った。

「もっと人が欲しい」

夏芽にそのことを話したら、納得してくれた。と同時に一言大声で「変態かよ」 そうだなあと思う。
それから、数日前の違和感について話して、お互いの強さ、優しさについて理解した。僕は少し、強くなりすぎていたのかもしれない。

夏芽の強さは限りない優しさからくるものだと思った

あいちゃんって漢字でどう書くんですか?「愛情の愛です」

2021.8.8

今日はゆうきさんが帰る日だった。朝起きると夏芽は寝ぼけまなこ。カメラを向けるとゆうきさんも真似をして寝ちゃった。

浜ちゃんの「時には起こせよムーヴメント」を聴きながら車を走らせた。

午前中は釣りをしに日川渓谷へ、夕方はアサマデパートに行った。お金がない人からもらっても仕方ないからと欲しかったコップを無料で頂いた。更に前回取り置きしていた卓上ライトを先に持っていっていいよと、お金はまだ払っていないのに持ち帰らせてもらった。
ゆうきさんは地球儀を買っていた。「今まで地球儀を買わなかったのはここで買う為だったんだなあ」

地元をこれだけ友人に案内する機会もなかったから、僕が山梨のことを良く知るきっかけにもなった。毎日のように銭湯や温泉にも行った

帰りは車でゆうきさんを実家へ送っていった。車の中では、夏芽とゆうきさんの3人でいろんな話をした。

そういえば、途中でぶどう狩りを体験することもできた

2021.8.10

僕が抱えている「寂しさ」について考える。たぶんこれが僕の一生の課題なんだろうなと思う。といいつつ、中学の頃よく聴いていたラッドの「さみしい僕」を聴き始めたりする。

ラッドの「愛し」を聴いて、「なんだ、お前ちゃんと音楽に助けられていたんだな」という感覚。

2021.8.13

夏芽が何日か家に泊まりに来ている
今晩、夏芽のことを撮っているときに、あることに気づいた。自分はカメラを構えているとき実は息をしていないことがあるらしい。集中すると、息をすることを忘れているらしいのだ。今日、偶然シャッターを切ったあと息切れしている自分に気付き、この事がわかった。どうりでカメラを持ち歩いた日はよく頭が痛くなる訳だ。

2021.8.16

今日は様々な情報に触れた。
コロナが盛んになって以来、何が正しくて、悪いのか、何を信じ、切り捨てたら良いのか、そんな根本的な判断がし辛くなってきたなと思う。
幾つかの起こった事象について書くのは簡単だけれど、書いても仕方のない事だと思うから書かない。

家族について、そろそろ書いてもいいのかなと思う。が、とても感情に任せて扱いきれるものではないと思うから、また気持ちの落ち着いているときに書こうと思う。取り急ぎ起こった出来事だけ書く

今日、母からこんなことを言われた

「母さん決めた。今度からあんたから食費貰うことにしたから」

潮時なのかもしれない。そろそろ本腰を入れて引っ越しの計画を立てようと思う

2021.8.17

今日の朝、夏芽が日記を読んだと伝えてくれた。辛かったと言っていた。本当にそうだと思う。僕はただ謝るしかなかった。

夕方頃から本格的に引っ越しのことを考え始める。ちょっと思い当たる(呼ばれているのでは、と思うような場所)地域の情報をみたりしていると、ああ僕は新しいところへ行きたかったんだなと思った。台湾から帰ってきて1年、僕は辛かったんだろうなあ、窮屈だったんだろうなあと自分のことを少しわかってあげられたような気がした。

それは山梨県早川町。

早川町に興味を持った理由というのも
・人口が1000人を切る過疎地域
・自然の豊かさ(カモシカがいるのだ)、狩猟などの文化も
・地域の風習や文化などが根強く残っている(先人たちの知恵について特に興味がある)
・集落や地域の人たちとの関わり(僕は山梨市出身だけれど、どうも中途半端な田舎に住んでいたような気がしていて、誰もが何処かしら「半端」でお節介な関係を築いていたように思うから。本当の優しさ、関係を地域の人と築くことについて興味がある)

僕はただ、自給自足の田舎生活がしたいわけではなく、誰かと関係を作る、そんな所を大切にしたいのかもしれない。幼い頃、名前の知らない人と会話をすることに疑問を抱いていたことを思い出した。

町のホームページやその他の情報を調べながら、自分がそこでどんな事をしたいのか、しているのかが簡単に想像できる。こんなにも簡単に想像できるのだ。家を離れる、2回目の体験だ。母からああいう風に言われたのも丁度よかったのかもしれない

3月で21歳になるからそれまでには引っ越しを決めようと決めてしまった。20歳のうちにこちらで出来ることをやろうと思う

2021.8.19

母親と少しぶつかった。口論の際、「いいよ、だったらひと月後の俺の日記を見たらいい」こんな事が自然と言えたのは自分でも笑ってしまった

数日前から親戚の農家のところで茄子の収穫の手伝いに行っている。これから10月くらいまで、火、土曜日と特別な日を除いて、毎日朝の5時〜8時頃まで(早起き習慣)が始まる。今日は朝茄子の収穫が終わってすぐ観光農園に行き17時まで仕事をしてきた。朝が早いとどうも夜の21時くらいには眠気が来るらしく、これはこれで楽しい生活になりそうだなと思った。

2021.8.20

今日は観光農園の仕事。午後、1人で桃のシートの片付けをしているとき
「誰のせいでもないんだよ」ふと、そんなことを言葉にしていた。桃の葉から溢れる陽射しがいつもと違って見えた。

また、初めて乗用モアに乗ったりもした。モアに乗って葡萄畑を走り回るのは、子供の頃想像したことのある風景のひとつだった

2021.8.21

夏芽と石和の花火大会にいく予定だったがコロナの影響でなくなったらしい

夏芽と話している時に感じた違和感について考える
僕はふと、その違和感がちょっと怖いなと思ってしまった。

日記を読んで辛かったと、その時の気持ちを彼女に聞いた。僕はこの日記が不特定多数の人たちに読まれるということを対して意識せずにのせてしまったのだ。可能性としての「誰かからの誤解」や「一瞬間の気持ちの危うさ」について考えられなかった。
本来日記というものはそういうものだ、という僕の意識が、誰かの気持ちを想像するに至らなかったのだと思う。彼女はもう、僕の日記を読むことはないんだろうか。僕は初めから知っていた、僕の文章がもしかしたら誰かを傷つけてしまうかもしれない可能性を。だが、もう起こってしまったことは取り返しようがないのだ。

どんなに優れた文章だろうと、たった1人の大切なひとを傷つけてしまう文章なら、いっそ書かない方がいいと思った

2021.8.23

「人と連絡が取れない」

僕は人と連絡を取るのが下手くそすぎる。誰かからの連絡に対し、すぐに反応することができないのだ。(なんて返信したらいいか、最近どうしているのだろうか、そんなことを考えると書きたいことなどまるでわからなくなり、結局手付かずになってしまうのだ。SNSが普及して以来、こんなにも手軽に取れるようになった意思疎通を、僕は実際鬱陶しく思っているのかもしれない。

別に「その人」のことがどうでも良いのではない。

例えば、ふた月会わないひとがいるとする。ふた月で僕の生活なんてものはだいぶ変わってしまうのだ。久々に会った人とそういう小さいけれども大きくなってしまった隙間を埋めるのが僕はとても苦手なのである

といいつつ、未だ返信ができていないひとには、本当に申し訳ないと思う

2021.8.24

今日は1日ナルラボで仕事。ルッコラやサニーレタスの種まきをした。

そういえば、以前みわさんの祖父母が早川町に住んでいたと言っていた。何か早川町のことを聞けたらと思い、そのことを話すと 「それなら家に住んだらいい」という。
僕は反射的に「ん?」と答えてしまった。こんな偶然に話が進んでいくとは思ってもいなかったので、やはり人生って面白いなあと思う

「変わってるねえ」とみわさんは笑いながら僕にそう言った

来週の火曜日、仕事の後みわさんが早川町の家に案内してくれるらしい。どんな景色が待っているだろう。いろんなことが「ひらけた」ような気がしてワクワクして仕方がない

今日読んだ漫画
手塚治虫 奇子
浅野いにお ソラニン

ソラニンは実家のトイレの時間だけ読むように決めていたもので、ひと月ほどかけこの間ようやく1巻を読み終え、何だか今日ふと、続きを読みたくなり残りを一気に読んでしまった。この物語を誰かと共有したい気持ちに強く駆られた

布団に入る前、ふと、今日の日付に目がいって、はてなんだろうと思う。2年前、僕が日本を発った日だった。もう2年前、なのだ

そういえばなつやさんから日記を読んだとメッセージを貰っていた。最近更新された歌を聴く。https://youtu.be/ADtxj-Y7pHY

良い歌だなあと思う。共に過ごし、感じていたことをほんの少しだけ思いだすことができる。どんどんどんどん忘れていってしまうね、僕たちは。なつやさんは何処までも子どもだったんじゃないか。早く、会って話がしたいよ

成為大人是什麼意思
不能成為想要的樣子
想要像小孩一樣跑來跑去
在夾縫裡能有什麼東西呢

我也沒有打算成為大人

2021.8.25

一昨日あたりから風の又三郎兄さんとお互いその日に見たYouTubeの動画をひとつ送るということをしている。

2021.8.27

夏芽に早川町のことを話した。
どこから書いたらいいだろう。彼女から、不安に思う気持ちを伝えられた。そういったことがある度、僕は信頼されていないんだなと思ってしまう。

台湾の時、どうしても距離があって「違和感を覚えたら話すこと」それを忠実に守っていた為にこのようなことになってしまったのかな。僕たちの思う「正しいこと」についてばかり重きを置いて話をしてきたせいか、僕らは何をしたらお互いを傷つけてしまうのか、そのことについてはあまりに無知だったように思う。

距離をおいた方がいいのだろうか。僕は彼女のことをとても愛しているし、大切に思っているけれども、今の僕たちはお互いがお互いの為になっていないんじゃないかな
主に、僕の選択が彼女を傷つけることが多いのだけれど。しかし、僕は、僕の選択の何が間違っているのかわからない。

彼女はよく、わたしの気持ちなんてわからないよ という。

僕としてはいつも、うん、わからないよ という気持ちでいる。もちろん、考え、寄り添うことはできる。それは全力で、だ。 ただ「すべてわかってしまうこと」なんて出来ないのだ。僕はそのことをよく理解しているつもりだ

お互いがお互いに干渉しすぎているのだと思った。僕は夏芽がした選択について何か否定的な意見を言うことはないが、僕がした選択については、よく、夏芽から一言目に否定的な意見をもらう。僕は最近そういったことに本当に疲れてしまった。それはいつも「何らかの可能性について」だった。「可能性」について否定し始めたら、僕には一体何が残るというのだろう?僕はいつも、自分を否定されているようだった。春に話した就職のことについてもそうだった。

僕は僕だ。どうして君に左右される必要があるんだろう?と。

僕は、依存していたのだと思った。どうして一緒にいる、ということが、どんな理由があるにせよ、どちらかの人生を否定したりすることができるだろう?

そんな、少し厳しい言葉を夏芽に伝えてしまった。彼女は部屋から出て行ってしまった。非常に怒っていた。5分ほどして、ごめんね、と謝りに行こうとする気持ちがある自分に気づく。

「一体何を謝るんだ?」今日はもういい。このまま寝てしまおう。いや、夏芽の気持ちを考えたらそんなことは絶対にできない、

毛布に彼女が溢した涙の跡が残っていた。ああ、これまで、僕は一体何度彼女を泣かせてしまっただろう。

2021.8.28

朝起きて、昨日の夜、夏芽が枕元で涙を流していたことを思い出す。昨日のことは、もうよく覚えていない。少し落ち着いた心持ちで昨日のことを話した。いろいろな話をした。
「それでも、お互い何も悪いことはしてないでしょう」話はそこに落ち着いた。お互いたくさん涙を流した。僕は僕で、君は君。本当にそれだけなのになーと思う。人と真剣に向き合うことはこんなにも辛いことかと毎回思う。しかし僕たちはこうやっていつも話し合ってきた。様々な思いを抱えながらも、こうして話をしていくことは何より大切だと思う。いつか、あんな時間もあったよねと話せる日が来ることを、僕はこんなにも容易に想像できるのだ。あと少しだと思う

見守っていてね。という。「まあどこかで迷ったりした時に、どんな姿勢で、どんな話を出来るかが大切だと思うよ」

第二種電気工事士の資格を取るために昨日試験の申し込みをした。筆記が10月、技能試験が12月にある。

2021.8.29

なつと明野の向日葵畑に行ってきた。もう向日葵は殆どが終わりかけていた。曇りで夕方の遅い時間に行ったから日も暮れかけていたが、久しぶりに夏芽とみる向日葵は本当に綺麗だった。少しだけれど見ることができてよかった。

2021.8.30

映画「マトリックス」を観た。

僕が幼い頃思い描いていた世界がそこにあった。ようやく、世界を認識したという感覚だった。映画を観終わったあと、現実とそうでない世界の確認もせず、平然と映画のレビューをし、この日記を書いている僕は中々面白いな。どうしてもっと早くこの映画に出逢えなかったのだろう
しかし、今日聴いたラジオの内容で偶々、唯識論について話していて、「マトリックス」は今観るべくして観たんだろうなーと思った。

2021.8.31

ナルラボの仕事のあと午後2時くらいだろうか、みわさんの運転で早川町へ向かった。
この行き帰りの車の中で話したことが、僕のこれからの人生においてどれ程の影響を与えるのかはわからない。が、今日という日に僕が受けた衝撃は中々のものだった。思い出せることから、断片的にだが書いていこうと思う

何かの拍子にこんな話をした。

「私が幾らたかやを褒めても、何も届いてないでしょう?」とみわさん
僕が自分自身を認められないから、誰かからの言葉だったり、外的要因によって満足することができないという

そうしている間はいつまで経っても自分自身に苦しめられるのだと。他者から認められたい、とか褒められたいという気持ちは、自分で自分の存在を認められないから思うのかもしれない。「ありのままの自分でいいんだよ」心から自分に対しそう思えた時、抱えていた様々な苦しみは、少しは和らぐのだろう。当たり前のことかもしれないが、僕はこう言われた時、今まで自分が自分のことをどれだけ蔑ろにしてしまっていたのか気づいたのだ

その作業段階として、自分の中にいる小さな僕 に耳を傾けてあげるといいという。要は「自分の過去」に目を向け、声を聞いてあげるのだ。これは簡単なように聞こえるが実際とても時間のかかる作業だ。大抵の「いつも何かに怒っている大人たち」は自分自身の過去の経験に少なからず囚われているのだと思う。

例えば、自分の話。僕が本を読むようになったきっかけについて考える。(高校の頃から本を読むようになったのだが、幼い頃は読書などまるで嫌いだった)そこには、「恐れ」があったのだと思う。思えば劣等感の塊だっだ。幼い頃の僕は言葉を知らなかった。誰もが当たり前のように取り扱っている常識について知らない事を、よく家族に馬鹿にされていたことを思い出す。だから僕が本を読む、知識を得たいと思うその気持ちの根底には「人と対等に話がしたい」という、思いがある。

夏芽との最近のことを話した。

例えばある時、誰かに否定されたり、理由もなく文句を言われたりすることがある。実はそれらは、自分の中にあった戸惑いや後悔、恐れなどによって自分から生まれたものだという。そう考えてみると、起こった現象というものは必ずしも「誰か」のせいではなく、「自分」というものと少なからず結びついているのであって、「誰か、彼ら」はそれらを気付かせてくれるのではないか、と。

思えば先月の日記を書いている時、僕は確かにこう思ったのだ。「この日記を夏芽が読むことによって、もしかしたら傷つけてしまうことがあるのかもしれない」と。その時僕の中に「恐れ」はあったのだ。そうして実際、それは夏芽を傷つけてしまうことになった

誰かからの「何か」は実は自分の中から生まれたもの。僕は、その言葉に感心するより他はなかった。
そうかもしれない。ヒロさんの言葉を思い出す。「誰かに会うことや、ある場所へ行くことが怖いということは、そこへ行くことで変わってしまう自分を恐れているからだよ」

僕は一体、何を恐れているのだろう?

映画マトリックスの話をまた考える。
この世の中は意識で成り立っている、意識の上に様々なものがある。

良いものと悪いものは表裏一体、価値観の話。

例えば今、新型コロナのワクチンの話が話題になっているだろう
ワクチンの接種率が上がっていくにつれ、ワクチンを打っていないものに対する風当たりが強くなってきた。ワクチンのことについて書かれた本がある。最近はワクチンを打たないものたちのことは、反ワクチン派などと呼ばれ、僕たち(僕はワクチンを打っていないし、これから打つつもりもない)に対する扱いがこの先どうなるかは容易に想像できる。
さらには2回接種で旅行解禁なんて話が出てきて、僕はほんとうに悲しくなってしまった。人はどうしてこんなにも容易く壁を作ることができるのだろう?

哀しいことに、僕ら人類は歴史から(現状は、ハンセン病患者の受けてきた被害そのものとなんら変わりないんじゃないか?)何も学ばなかったということがまたはっきりとわかってしまった。

ワクチンのこと。様々な情報が飛び交う中、僕は周りの人たちがどんどんワクチンを打っていくことについて些か戸惑いを覚えていた。僕の祖母なんかは色々と話をする前にいつの間にか打ってしまっていた。多くの人の中でもそういう状況が起きているんじゃないかな

実際、数ヶ月前ワクチンを打つか打たないかということについて彼女と話す機会があった。様々な人に話を聞いたり、できる限りの情報を調べたりした。しかし、マスメディアを始め不確かな情報が多すぎるために、僕らは何を信じたら良いのかがわからなくなってしまった。
だから、側にいる大切な人の言葉を信じた。
僕らが出した結論は、「自分たちの免疫をしっかり作ることを第一に優先しよう、そうして、まだまだわからないことが多いワクチンをわざわざ身体に取り込む必要はないよね。」というものだった。

これらはまず、前提としての僕の気持ちだ。
そうして、少し前から抱えていた思いについてみわさんに話してみる

「僕は、祖母をはじめ親しい友人たちがワクチンを打った、これから打っていくだろうという事実に対して、どういう心持ちでいたら良いのかわからないんです。」

それに対してみわさんは
「ワクチンを受ける人がいるのは、彼らがそれを「良いもの」として受けるのであって、そうすれば身体に悪さはしないんだよ。それを良い悪いと「わたし」だけの価値観で、それはだめだよというのは違うよね」と。

みわさんは最近、「良い、悪い」という判断基準そのものを自分の中から捨て去るという課題を自分に課しているという

「価値観が生まれると誰かを否定することになるよね」と。

僕は、先程の言葉について考える。想像してみる。なるたけ真っさらになるように。
振り返ってみると、僕の心にも少なからず、なんらかの「判断」をしてしまっている気持ちがあるということに気づいた。そんな、浅はかな心持ちを反省した。

僕らは普段生活を送る中であらゆる「判断」をしている。様々な感情を抱えながら、まるで息をするように善悪の判断をしているのだ。
この前書いたけれども、自分が哀れだな可哀想だなと思う人も、僕が「そう判断しているだけ」で、本来良いも悪いもないのかもしれない。そういった考え方は、振り返ってみると本当に傲慢だったなと思う。

そんな、何事も判断しないという、ある種自然の在り方のようなもの。僕はそれを大切にしたいと思った。
そうして実際、そういった判断だったり、これまでの自分の凝り固まった価値観から脱却できるにはどのくらい時間がかかるだろう?

ちょっとだけ、誰も傷つくことのない世界を想像する。

哲学だなあと思った。様々な僕の考えに対するみわさんの言葉を聴いて、この人は仏か!そう思ってしまった、僕は感動したのだ

夏芽とのこと。僕は答えを急ぎすぎているのかもしれない。

「大丈夫。なっちゃんはこっち側にくるから」

僕が急ぎすぎさえしなければいいのだ。「今」というこの瞬間に、全てをわかり合おうとすることを、僕はとても気持ちよく諦めることができた。

どんな話をしてもそこに帰結する、還ってくる。そんなみわさんの考え方は奥が深すぎて、到底言葉にできるものではなかった、そういう風に感じた

馬渕尭也

Author 馬渕尭也

2001年生まれ。山梨市出身。高校時代から周囲の人たちのありのままの姿や風景をフィルムカメラで撮っている。 高校卒業後台湾へ留学。帰国後の現在は、農業をしたり、地域の読書会に参加したりと、様々な場所をウロウロしながら生活というものを日々模索している。好きな作家は深沢七郎 Facebook / Instagram

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