【ON READING/読む時間】 #032「マイ指記[1/3]」

人生で初めて左手の薬指の「腱」、いわゆる「筋」と呼んでいるものを切ってしまった。
と言っても刃物で指を切ったとか、そういう出血をともなうような痛々しい外傷ではなく、まったく些細な体の動作によって、指を曲げたり伸ばしたりするための腱が、指の中でいとも簡単に切れてしまったのだった。

それは5月10日の早朝のこと。清々しい気持ちで目覚めて、最近買ったばかりのポータブルレコードプレーヤーに民族音楽やら、ジャズやらクラシックのレコードに針を落として聴いていた時のこと。ケガの一時的な心的ショックで、その時何を聴いていたのかは、もはや思い出せないが、私は気持ちの良い朝に音楽を聴きながら心なしか浮かれていた。
針をそっとレコードの上に載せると、それは忠実に溝を捉えてなぞり、そこから流れる柔らかな音で満たされようとしていた。

私は部屋でベッドマットレスを床に直に置いて、ベッド兼ソファーとして使っているのだが、その朝、そんなふうに浮かれた心で左手を伸ばし、そのベッドに体を委ねようとして、手のひらをふわふわした枕とマットレスが重なるあたりに置いて、もう少しだけ後ろの壁側に下がろうとしたその瞬間、「ポキン」とも「ぽきりん」とも、何とも形容し難い結構大きめの音が耳に響いた。人生で生まれて初めて聞いた音だった。

その瞬間、痛みはなかったものの、あまりにもいい音がしたので、まず「骨折」の二文字が浮かび、そして思わず「あちゃ〜!」と呟いていた。
やってしまったか?と思い、そうっと左手を上げてみると、薬指の第一関節が下を向いてくたりと曲がっていた。
右の指でつまんで何度か元の位置に戻そうとするが、戻りそうで戻らず下を向いてしまう。
こういう時、骨折だとすぐに腫れてくるって経験者が言ってたなと思い出し、指を数分間じっと見つめていたが痛みがあるわけでもなく、腫れてくる様子もない。だとしたら筋が切れたのだろうか?指は元の位置に戻らない。
仕事の前だけれどまだ時間は早い。朝食をお腹に入れて、指をなるべく動かさないようにシャワーを浴びたら病院だ。
生まれてこのかた、幸いにしてこれまで骨折も捻挫もしたことがなく、いや、もしかしたら小学生の時に尾てい骨やスネを強くぶつけてしばらく痛かった時も、本当はヒビのひとつも入っていたのかもしれないが、若い細胞とともに気づいたら治っていた。

上田の友人が去年スケボーをしていて骨折した話を聞いた時も、その痛々しさも激しいスポーツをしない自分には縁遠いから大丈夫と思っていたが、ついに自分もそちら側を経験する時が来てしまったのだ。

ケガの1時間後、私は隣町の総合病院の整形外科の待合室にいた。
ここの病院の整形外科には、珍しく私と同じ苗字の先生がいることは以前から知り合いから聞いていたので、実はそれだけは少し楽しみだった。
いくつかある診察室を見ると一番左のドアの入口に「石垣」という札がついている。せっかくならその同姓の先生が担当だったらなんだかおもしろいなと思っていたら、その部屋から「石垣さーん」と呼び出しがあった。

先生も私の苗字を見て、珍しく同じ苗字だと思ったらしく、まず苗字の話から診察が始まり、出身地や石垣島の話になった。私も石垣島には行ったことがある。先生も行ったらしい。
これは石垣だけでなくとも、珍しい苗字同士の連帯感あるあるかもしれないが、佐藤さんや小林さんではなかなかこの展開にはならないだろう。

先生は私より(おそらく)年上の、楽しそうな感じの方だった。病院の先生は無愛想な先生よりも楽しい先生がいい。なにしろこちらは全くのケガの素人なのだ。いろいろ聞ける方が安心できる。

先生は私の間抜けな説明を、ケガの理由と状況として丁寧にカチャカチャとパソコンのカルテに入力してゆく。伝えながら、つい1時間半ほど前にベッドに座ろうと、ひょいっと手を置いた時のシーンが脳内で何度も繰り返し再生される。
そして先生は、私の指のレントゲン写真を見ながら、「骨折はしていないけど切れてますね~」と言ったので、「やっぱり切れてましたか~」と返事をした。
薬指の腱というのは、突き指などの衝撃が原因となって意外と簡単に切れてしまうものらしい。腱が骨から引っ張られたことで、ごく小さなヒビもレントゲンには写っていたようだが、これも時間と共に治るらしい。

それから先生は、分厚い医学書の「マレット指」のページなどを開いて、図解や写真とともに今回のケガのことを説明してくれた。
その中に一瞬、私の見間違えでなければ中指を立てたような図があり、単なる症例図にもかかわらず思わず吹き出しそうになってしまったので、マスクの下で口を結んでグッとこらえた。スミマセン。

先生から「手術をしますか?」と聞かれたので、どんな手術ですか?と尋ねると、2本の針金のようなものを指に刺してしばらく固定するという。
その解説図も出てきて、細い針金が刺さったような指がとにかく痛々しすぎて「このまま固定して直すのとかは無理でしょうか?」と思わず聞いてしまった。
手術をした方が早く治るようなのだが、今回はすぐに病院に来たので、固定して自然治癒で治すというやり方も選べるという。できることならケガはしていても、このまま無傷で済ませたい。
私はすぐに心が決められず、次の予約まで考えさせてもらうことにした。
そして薬指に同じ肌色をしたプラスチックの装具のサイズを選んで装着し、アルミの添え木を当ててテープで止め、包帯を何周か巻くと、その指はどこか小さなミイラのようだった。

(②へ続く


[BOOK LIST]

『ぼくのたび』 (みやこしあきこ/ブロンズ新社)
小さな町で小さなホテルを営んでいる「ぼく」は、さまざまなところから来るゲストを日々迎え、見送っている。その「ぼく」がいつか行きたいと夢みる旅の世界や、旅への憧れを描いた絵本。
どのページも映画のワンシーンのように味わい深く、それぞれのシーンに書き込まれているディテールも魅力的で、特に私は旅先から届いたポストカードが壁に貼られているページが気に入っています。
私にとって旅という行為は、行く前も、行っている間も、帰って来てからも、自分を育んでくれる大切な経験なのですが、この絵本にもみやこしさんの旅への思いや感謝が込められているように感じました。

 

※mountain bookcaseでは、みやこしあきこさんのイラスト入りサイン本を常時取り扱っています。


石垣純子

Author 石垣純子

mountain bookcase 長野県出身。本屋mountain bookcase店主。お店は基本的に土日月オープン。平日は八ヶ岳山麓の「今井書店ふじみ店」の書店員もしています。 Facebook / Instagram

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