【ON READING/読む時間】 #031「最初の一歩」

「本の販売をご検討いただけないでしょうか?」
先日、とある本の著書からSNSに直接メッセージをいただいた。
本を書いたのは1996年生まれの女性で、名前は小原晩(おばらばん)さんという。(その響きから堀江敏幸さんのエッセイ「おぱらばん」を思い出した。)
メッセージに添えられた「一生懸命生きれば生きるほど、空回りするすべての人に贈ります。」という本の解説とタイトルが気になって、見本を送ってもらうことにした。

『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』。
この風変わりなタイトルのエッセイは、現在大阪に住む八王子出身の小原さんが高校卒業後に美容師になろうと決め、都心に暮らした日々を綴ったものだ。

最初に出てくるのがタイトルにつけられた唐揚げ弁当の話だった。
社会人一年生の夏、仕事をサボることを覚えた小原さんは、時々青山のファミマのビルの隙間で唐揚げ弁当を買って食べていた。
片手で気軽に食べられるおにぎりやサンドイッチではなく、その対極にあるような唐揚げ弁当をだ。
そうしたらある日そこに貼られていたのは「ここで唐揚げ弁当を食べないでください」」という張り紙だった。
誰にもバレていないと思ったら、しっかりチェックされていたことを知り、心臓がバクバクして表参道を必死で駆け抜けた。そんなふうにして小原さんの東京暮らしが始まった。

この最初の章を読んで、私はとても惹かれてしまった。それは小原さんがビルの隙間で食べていたのがなんと言っても唐揚げ弁当だったから。
サボるというずるがしこさがありながら、青山という洒落た立地で唐揚げ弁当を頬張るというのは、なんて計算高さというものがない、まっすぐな欲求なんだろうか。

このエッセイには他にも美容室で働いていたときのこと、家族の話、亡くなったお父さんのこと、むちゃくちゃ貧乏だった19の頃のこと、夜中の映画館や公園で過ごした話など、10代から20代ならではのもどかしくて愛おしい時間が詰まっている。
過ぎてしまうとわかるものだが30代は、なかなかこんなふうには生きられない。もう少し世間を知って少しだけ賢くなって無茶は減る。

私はページをめくりながら、社会に最初の一歩を歩み出したばかりの頃の自分のことを懐かしく思い出していた。
高校を卒業して最初に就職した会社は、たったひと月程度しかいなかったはずなのに、何もないようでいていろんなことがあった。

そこはスバルの海外向けのカタログに使う車のスタジオ撮影がメインの、小さな下請けの広告代理店だった。
スタジオは厚木にあって、西新宿の雑居ビルにあった事務所は日中はたいてい私と、女優のもたいまさこさんに似た先輩と二人だけだった。
もう本名も思い出せない“もたい先輩“は、事務仕事の傍ら、ラジオの放送原稿などをこっそり書いていた。私にだけそんな秘密を打ち明けてくれた。

私はそこで何をしていたかといえば、たった一人私だけが入社した小さなその会社は、ちょうど撮影が忙しい時期だったのか、誰も社会人になりたての19歳(誕生日が4/4なので一足早く19歳になった。)に何かを教えてくれたりはしなかった。

社長に言われてただひたすらスケッチブックに車の絵を描いていたり、オーストラリア向けのカタログを日本語に翻訳するよう頼まれて、翻訳の真似事のようなことをしたりもした。車の免許もなく、車に詳しくもない私にとって、部品ひとつとっても翻訳するのは一苦労だった。

何回かは厚木のスタジオに電車に乗ってフィルムなどを届けに行ったこともあった。そんな時はぽかぽか春の光を浴びながら、小田急線に心地よく揺られながら、ここぞとばかり本を読んだ。

とにかく最初のお給料日まではお金がないから、お昼もデスクの一番大きな引き出しに買いためたシリアルで済ませたり、定食屋さんで500円のランチを食べた日は贅沢したなと、美味しくて満足したのに軽くなった財布片手に少しだけ後悔した。

ハイヒールというものを買ったのも人生で初めてのことだった。そんな慣れない靴を履いて1時間半以上かけて通勤し、夜は夜で都会のネオンがまぶしくて、なんとなく仕事の後も何をするでもなくダラダラお店を見てまわったりして寄り道し、自分の意思で選んで始めたばかりの社会人は、何をしていてもやりがいが感じられず、“もたい先輩“に連れていってもらって飲んだあとは、二人でダラダラと深夜すぎの純喫茶で朝方まで過ごし、よくわからないまま回り続ける毎日に飲み込まれ、気づいたら膀胱炎を悪化させ血尿が出るまでに疲れ切っていた。
ある晩どうにも足が痛くて、履いていたハイヒールを脱いで両手に持って、裸足でスタジオアルタの大きな街頭ビジョンを見上げて心の底から「疲れた」と言葉がもれたあの春。

結局GW明けに私はその会社を辞めることになるのだが、小原さんのエッセイを読んでいたら久しぶりにあの春のことを思い出した。

この春も皆それぞれの春がはじまった。
特に新しいスタートを切った人にとっては、さまざまな初めてのことに、浮かれたり沈んだり心が思いもよらず揺れるだろう。けれど、その不安定さですら、時を経て思い出すと案外良いものだと伝えたい。
この不安定な世界に、誰の日々にも美しい春の光が差しますように。



[BOOK LIST]

『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』 (小原晩)
作家であり歌人の活動もされている小原晩さんによる初めてのエッセイ集。
時にユーモラスに、時に味わい深く語られる10代から20代の日々は、読む年齢によって感じ方も変わるはず。私には懐かしかった感覚も、社会人一年生にはどこか励まされるように感じられるかもしれません。


石垣純子

Author 石垣純子

mountain bookcase 長野県出身。本屋mountain bookcase店主。お店は基本的に土日月オープン。平日は八ヶ岳山麓の「今井書店ふじみ店」の書店員もしています。 Facebook / Instagram

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