【ON READING/読む時間】 #024「いちごな日々」

この5月から、縁あって『高原のエコーズ』という、県境をほんの少し越えた長野県の富士見町にある夏いちごの農家で週に数日バイトをしている。
 
このいちご農家を営むのは、「これからは農業だ」と、20代の後半に思い立って、それまでのバンドマンと空手の先生という肩書から、移住と転職を同時に成し遂げた、今もミュージシャンみたいな雰囲気の鈴木慎吾君と、もともと介護士だったというこのみさんの若い夫婦だ。今年は独立して4年目だという。最初の2年間は二人だけでやっていたというのだから本当に驚きだ。年齢を超えて尊敬に値する。

私が畑関係の仕事にチャレンジするのはこれが二つ目だ。去年は白州でバラの苗木の芽つぎのバイトをした。
『高原のエコーズ』は、数年前に知人に紹介してもらった。家から車で5分もかからないほど近所だし、そのうち高校生になる娘の夏休みバイトとか、何かの時に役立つかもと思って連絡先だけ交換していたのが、春先に「今年も人を募集するからどうですか?」と連絡をもらったので、今までイチゴ狩りにすら行ったことがなかったけれど、知らないことを知ればその方面の知識も広がるかもしれないし、ひたむきに何かをしている人たちと仕事をすると、いろんな意味で刺激されて背筋が伸びるであろうと思い、いちごの扉を開けてみることにした。

今のところ朝6時から9時くらいまではいちごの収穫、これが週3日。そのあとの株の手入れなどに週2日。それらが私の仕事だ。
中でもいちごの収穫は、はじめる前に想像していたよりも色づきの見極めが難しく、根気よく教えてもらってやっと目と手で掴めてきたけれど、数週間は自分のあまりの農業的センスのなさにあきれてしまった。思うように仕事ができない自分と出会って、久しぶりに喝を入れられた気持ちになった。
 
いちごの収穫は、均一な工業製品と違って果実の熟し方のスピードや色づき方も時期や天候等によってバラつきがある。
表面がいい感じで赤いと思ったら裏側の半分が白っぽかったり、気温の低い日が続くと色づき方にムラがでたり、自然の恵みはなかなか一筋縄ではいかない。
私は農作業をすることでやっと、自然が一律でも均一でもないという当然のことを自分の体に染み込ませることができたような気がする。

そしていちごについても、いろいろと興味が湧いてきた。
南米チリを原産として世界中に広まったバラ科のいちごは、日本には江戸時代にオランダ人によってもたらされた。
意外にも一般家庭の食卓に浸透したのは昭和40年代の高度経済成長期。縄文や弥生時代から食されていたという梨や柿などと比べると、だいぶ新しい果物だ。

属名のFragariaはラテン語で「香る」の意味があるそうだが、確かにバラと同じ科に属しているだけのことはある。
熟れたいちごの果実自体も甘く魅惑的に香るけれど、ランナーと呼ばれる、つるのような枝を剪定している時や、手入れのために葉を間引いている時、私は青さの中にほんのりバラのようなみずみずしい芳香を感じる。
手入れ作業をしていて気付いたのだけれど、私はこの香りがものすごく好きだ。作業をしながら思わず深呼吸していたりする。何という成分からこの香りができているかは知らないけれど、いい気分になることは確かだ。

今働いている農場でメインで育てられているのは『サマーリリカル』という数年前にリリースされた新種で、完熟した果実は甘さと酸味のバランスも良く、ジューシーでとてもおいしい。
このいちごは名前が決まるまでは、「長・野53号(チョウヤ53号)」なんて記号で呼ばれていたそうだ。
それに『サマーリリカル』(summer lyrical)=「夏の叙情」なんて、リズミカルで素敵な名前をつけて、情緒や詩情を持ち込んだセンスはなかなかいいなと思う。
いちごのことを全くの素人である私がいろいろ語るのもおこがましいのだけれど、今のところいちごの扉を開けてみて良かったなと思う。

たとえば青空からはじまる日の朝の光に輝くいちごの赤の艶やかさ。いちごの株元に広がる苔の森。受粉のために忙しく働きまわるミツバチの愛らしさ。朝露でビーズのように縁取られた葉の美しさなど、農地では日々さまざまなことを見たり感じることができる。
そんな風景のひとつひとつや、知らなかったことを体感してゆくことで、少しずつパズルのピースが収まるべきところに収まっていくような現象が自分の中で起きている。
 
今年はコロナ禍の影響で遠出をしたり旅をすることが厳しいけれど、たとえ身近であってもこうして受け取る様々の新鮮な刺激は、知らなかったことであればあるほど、旅をした時に感じる刺激となんだか似ているような気もする。

◉『高原のエコーズ』
ハウスの手前にいちごの直売小屋(無人販売)もあります。
https://www.instagram.com/kougen.no.echoes

[BOOK LIST]
「日高敏隆 ネコの時間」(平凡社)

動物行動学者の日高敏隆さんによる、自然科学エッセイ。
赤色の花が見えないモンシロチョウと、私たちが見ている世界は同じひとつの世界だというのに、両者は異なる色の世界を生きているといいます。
赤色が見えないということは、なんだか不思議な感じですが、モンシロチョウにはいちごの姿は見えていないのです。
生きものたちの世界は私たちが考えているよりもずっと豊かで複雑で、ページをめくる度に自然への興味が深まることでしょう。

この平凡社のSTANDARD BOOKSシリーズは、自然科学や民俗学など、さまざまな著者による珠玉の随筆を編んだものですが、内容に合わせたそれぞれの装丁も美しいので、集めたくなってしまいます。


 

石垣純子

Author 石垣純子

mountain bookcase 長野県出身。本屋mountain bookcase店主。お店は基本的に土日月オープン。平日は八ヶ岳山麓の「今井書店ふじみ店」の書店員もしています。 Facebook / Instagram

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